2008年08月30日
続・≪行≫
エルスタッフが電卓片手に経理を一生懸命に行なっているその横で、私はといいますと『前蹴り』などに励んでいる姿がしばしばあります。
前蹴りというのは、私流のトレーニング方法であり、ひざを大腿の裏側につけるようにして蹴ることで『ジョギング』と同じような効果がもたらされます。
前蹴りだけではなく腕立てなども併せて行ないますが、この季節は暑さと湿度がありますから、床に横になって腹筋を終えた時などは〔床に汗の水たまり〕が出来ます。
「スタッフが仕事をしている横でトレーニングに励むのも何だかな~」と思ったのですが、トレーニングも『私の仕事の一つ』なのだと気がつきました。
【エル】のような〔法を話し伝えていく〕ことを仕事としている条件としましては、<心身がいつも健康な状態である>必要があろうかと私自身は考えています。
お釈迦様は常に『禅定・瞑想』を行なっていました。
他人からすると、「目を閉じて座しているだけで、身体を動かして仕事をしていない…」などと思うかもしれないですね。
しかし、お釈迦様は<反省行>をされていたのです。
「さきほどの説法に間違いはなかっただろうか。他に良き表現はあったのではなかっただろうか」
「自分のおもいの中に批判する気持ちや排他するおもいはなかっただろうか」と、常に自身の言動や心の中の状態を振り返ることをされていました。
私のトレーニングは<瞑想も兼ねて>います。
音楽を横で流しながら、ではなくて、外の自然を眺めながら黙々と一時間ほど続けます。
腹式呼吸を伴いながら行なうことで、インスピレーションや閃きがもたらされたりもします。
それが、『次のセミナーで話すテーマ』となったり、『セッションでの答』ともなる場合がしばしばあるのです。
このようなことから、日々のトレーニングを〔自身のため、そしてセミナーやセッションのため〕に行ない続けている次第です。
言い換えますと、≪常に心身が一番良い状態であるように保ち続ける(あるいは持ってくる)≫ です。
野球のイチロー選手は、毎年『バットを新しく作る時に、バットのサイズは変えない』らしいです。
つまり、『イチロー選手は、身体のサイズや寸法を毎年同じ状態であり続けている』わけです。
ですので、バットのサイズを変えたりはしないようなのです。
あるテレビ番組で放映していましたが、イチロー選手の朝昼兼用の食事はプレー中でも、またオフ中でも毎回同じようです。(*奥様の手作りのカレーライスのようです)
『いつも同じ状態であり続ける』 当たり前のようで実はそこには隠れた努力が要されているのです。
前蹴りというのは、私流のトレーニング方法であり、ひざを大腿の裏側につけるようにして蹴ることで『ジョギング』と同じような効果がもたらされます。
前蹴りだけではなく腕立てなども併せて行ないますが、この季節は暑さと湿度がありますから、床に横になって腹筋を終えた時などは〔床に汗の水たまり〕が出来ます。
「スタッフが仕事をしている横でトレーニングに励むのも何だかな~」と思ったのですが、トレーニングも『私の仕事の一つ』なのだと気がつきました。
【エル】のような〔法を話し伝えていく〕ことを仕事としている条件としましては、<心身がいつも健康な状態である>必要があろうかと私自身は考えています。
お釈迦様は常に『禅定・瞑想』を行なっていました。
他人からすると、「目を閉じて座しているだけで、身体を動かして仕事をしていない…」などと思うかもしれないですね。
しかし、お釈迦様は<反省行>をされていたのです。
「さきほどの説法に間違いはなかっただろうか。他に良き表現はあったのではなかっただろうか」
「自分のおもいの中に批判する気持ちや排他するおもいはなかっただろうか」と、常に自身の言動や心の中の状態を振り返ることをされていました。
私のトレーニングは<瞑想も兼ねて>います。
音楽を横で流しながら、ではなくて、外の自然を眺めながら黙々と一時間ほど続けます。
腹式呼吸を伴いながら行なうことで、インスピレーションや閃きがもたらされたりもします。
それが、『次のセミナーで話すテーマ』となったり、『セッションでの答』ともなる場合がしばしばあるのです。
このようなことから、日々のトレーニングを〔自身のため、そしてセミナーやセッションのため〕に行ない続けている次第です。
言い換えますと、≪常に心身が一番良い状態であるように保ち続ける(あるいは持ってくる)≫ です。
野球のイチロー選手は、毎年『バットを新しく作る時に、バットのサイズは変えない』らしいです。
つまり、『イチロー選手は、身体のサイズや寸法を毎年同じ状態であり続けている』わけです。
ですので、バットのサイズを変えたりはしないようなのです。
あるテレビ番組で放映していましたが、イチロー選手の朝昼兼用の食事はプレー中でも、またオフ中でも毎回同じようです。(*奥様の手作りのカレーライスのようです)
『いつも同じ状態であり続ける』 当たり前のようで実はそこには隠れた努力が要されているのです。
Posted by 井出 章彦 at
10:46
2008年08月25日
≪行≫
【エル】は、ホームページも作成しておらず、宣伝もせず、各地を廻って講演活動をしているわけでもないのですが、一昨日と昨日の二日間にわたり実施しました『宿泊制研修会』には、西は滋賀・兵庫・大阪、 東は群馬・埼玉・千葉などからの総勢31名が一同に集いました。
このような宿泊制の研修会は三回目でしたが、今回は特に≪心と身体の調和≫がテーマでした。
初日から汗を流しながらの内容となりまして、翌日は《筋肉痛》となっていたメンバーさんが何人もおりました。
身体を動かすワークもとても多かったのですが、それは『法の学び』と共通しているところが多々ありますので、セミナーの中では度々伝えている事柄です。
「法の知識や理念などを知っても、それらを身に付けたり、自分のものとするには≪日々の実践≫が必要となります。そしてその行為は地味であり、地道なものですから、根気や継続していく努力を要します。勇気も要求されます」
このように伝えていますが、正に≪立禅・這≫ ~ 中国拳法・武術 の理念と同じです。
ですので、エルのセミナーの中では≪立禅・這≫などを取り入れながら、根気・勇気という精神を養うと共に、『実践しながら 自らのものとして吸収していく』 『本当の意味で 自分のものとする』 につながるための努力を行ない続けています。
武術の道場に行って<必殺技・極意>と言われているような技を教えてもらったとしても、それを使いこなすようになるには日々の修練が必要となりますね。
そのことと一緒です。
今回の研修会に向けて、随分と前から準備をしてきました。
この準備というのは、『知識~話す内容』のことだけではありません。
実際に身体を動かし、自分なりのトレーニングを積み重ね、『人に伝え教えることが出来るだけの身体と技術を練り上げて』きました。
来年の春には滋賀において『宿泊制研修会』を実施します。
次の日曜日(8月31日)は東京において『セミナー』を行ない、その週の土曜日(9月6日)には熱海においてセミナーを行ないます。
まだまだこれからも私自身の≪行≫は続きます。
この≪行≫は今生だけではなく、天に還った先にも続けられ、また次の地上界に生まれた時にも同じように続きます。
私だけではなく、全ての生き物に該当することなのです。
(*生き物だけではなく、朝・昼・晩という一日の流れもそうですね)
科学では 〔質量 不変〕 〔エネルギー 不滅〕 なる法則があります。
これは 〔魂の永遠性と永続性〕 をあらわしています。
今、熱海だけでなく雨が続いている地方がありますが、猛暑だったあの陽気がまるでなかったような涼しさ~秋を感じていますし、その後には冬が訪れて来ます。その後には春が…。
このように〔季節〕も〔一日の流れ〕と同様にグルグルと廻り続けています。
私たちの魂も同じです。
≪循環は 大宇宙の真理≫
全てのものは動き続けているのです。 ← ≪行≫ です。
このような宿泊制の研修会は三回目でしたが、今回は特に≪心と身体の調和≫がテーマでした。
初日から汗を流しながらの内容となりまして、翌日は《筋肉痛》となっていたメンバーさんが何人もおりました。
身体を動かすワークもとても多かったのですが、それは『法の学び』と共通しているところが多々ありますので、セミナーの中では度々伝えている事柄です。
「法の知識や理念などを知っても、それらを身に付けたり、自分のものとするには≪日々の実践≫が必要となります。そしてその行為は地味であり、地道なものですから、根気や継続していく努力を要します。勇気も要求されます」
このように伝えていますが、正に≪立禅・這≫ ~ 中国拳法・武術 の理念と同じです。
ですので、エルのセミナーの中では≪立禅・這≫などを取り入れながら、根気・勇気という精神を養うと共に、『実践しながら 自らのものとして吸収していく』 『本当の意味で 自分のものとする』 につながるための努力を行ない続けています。
武術の道場に行って<必殺技・極意>と言われているような技を教えてもらったとしても、それを使いこなすようになるには日々の修練が必要となりますね。
そのことと一緒です。
今回の研修会に向けて、随分と前から準備をしてきました。
この準備というのは、『知識~話す内容』のことだけではありません。
実際に身体を動かし、自分なりのトレーニングを積み重ね、『人に伝え教えることが出来るだけの身体と技術を練り上げて』きました。
来年の春には滋賀において『宿泊制研修会』を実施します。
次の日曜日(8月31日)は東京において『セミナー』を行ない、その週の土曜日(9月6日)には熱海においてセミナーを行ないます。
まだまだこれからも私自身の≪行≫は続きます。
この≪行≫は今生だけではなく、天に還った先にも続けられ、また次の地上界に生まれた時にも同じように続きます。
私だけではなく、全ての生き物に該当することなのです。
(*生き物だけではなく、朝・昼・晩という一日の流れもそうですね)
科学では 〔質量 不変〕 〔エネルギー 不滅〕 なる法則があります。
これは 〔魂の永遠性と永続性〕 をあらわしています。
今、熱海だけでなく雨が続いている地方がありますが、猛暑だったあの陽気がまるでなかったような涼しさ~秋を感じていますし、その後には冬が訪れて来ます。その後には春が…。
このように〔季節〕も〔一日の流れ〕と同様にグルグルと廻り続けています。
私たちの魂も同じです。
≪循環は 大宇宙の真理≫
全てのものは動き続けているのです。 ← ≪行≫ です。
Posted by 井出 章彦 at
17:08
2008年08月21日
記憶
今週の土曜日はいよいよ『宿泊制研修会』です。
ここでは≪立禅(りつぜん)・這(はい)≫を重点的に行なう予定です。
それに伴いまして、〔予習〕を実施しています
中国拳法と言えるかどうかは分かりませんが、それに似た動きをします。
さて、この予習ですが、自然とある動作が出てきます。
それは〔拳法の技〕的な動きです。
「身体を動かしていると、自然とこの技が出てくる。不思議だなぁ」と、常々感じていました。
しかし、技は出てくるのですが、〔使い方〕に関しては分かりません。
参考書やマニュアル本などにも載っていない技であるからです。
スタッフを相手に練習していた時、「あっ、こういう使い方をするんだ!」と、気づきました。
「なぁ~るほどぉ」というような感じです。
空手に関しては、三十年前くらいに週刊《少年マガジン》において<空手バカ一代>として連載されていたところの『芦原英幸』師範の下で黒帯を取得しました。
今のこの拳法(的な動き)の練習時においては、空手の時とは違って、「あれ、これはどこかでやっていたなぁ」という感覚が幾度となく生じてきます。
それは「懐かしいなぁ」という感覚です。
拳法~武術は、今から二千二百年前くらいから中国にあったようです。
明後日の『宿泊制研修会』では、参加する三十一名の感想や様子をうかがいたいと思います。
もしかすると何人かが《私と同じ感覚を持つ》かもしれないからです。
記憶は頭(脳みそ)に刻まれるように思われますが、実際には心の中に刻まれていきます。
心の中の想念帯(そうねんたい)という所に、過去の何十、何百、何千もの転生での体験などが詰め込まれています。
想念帯は『運命のフィルム』となっています。
『催眠療法』 『前世療法』 『過去世回帰』を行ないますと、数百年前の当時の出来事などを思い出したりするのも、この想念帯と強く関係しているのかもしれません。
初めて逢った人と《意気投合》したりするのも、前世での記憶や体験などと大きく関係しているのかもしれないですね。
『袖擦りあうも 他生の縁』 と言います。
これも、前世からの縁~つながりを顕している言葉ですね。
ここでは≪立禅(りつぜん)・這(はい)≫を重点的に行なう予定です。
それに伴いまして、〔予習〕を実施しています
中国拳法と言えるかどうかは分かりませんが、それに似た動きをします。
さて、この予習ですが、自然とある動作が出てきます。
それは〔拳法の技〕的な動きです。
「身体を動かしていると、自然とこの技が出てくる。不思議だなぁ」と、常々感じていました。
しかし、技は出てくるのですが、〔使い方〕に関しては分かりません。
参考書やマニュアル本などにも載っていない技であるからです。
スタッフを相手に練習していた時、「あっ、こういう使い方をするんだ!」と、気づきました。
「なぁ~るほどぉ」というような感じです。
空手に関しては、三十年前くらいに週刊《少年マガジン》において<空手バカ一代>として連載されていたところの『芦原英幸』師範の下で黒帯を取得しました。
今のこの拳法(的な動き)の練習時においては、空手の時とは違って、「あれ、これはどこかでやっていたなぁ」という感覚が幾度となく生じてきます。
それは「懐かしいなぁ」という感覚です。
拳法~武術は、今から二千二百年前くらいから中国にあったようです。
明後日の『宿泊制研修会』では、参加する三十一名の感想や様子をうかがいたいと思います。
もしかすると何人かが《私と同じ感覚を持つ》かもしれないからです。
記憶は頭(脳みそ)に刻まれるように思われますが、実際には心の中に刻まれていきます。
心の中の想念帯(そうねんたい)という所に、過去の何十、何百、何千もの転生での体験などが詰め込まれています。
想念帯は『運命のフィルム』となっています。
『催眠療法』 『前世療法』 『過去世回帰』を行ないますと、数百年前の当時の出来事などを思い出したりするのも、この想念帯と強く関係しているのかもしれません。
初めて逢った人と《意気投合》したりするのも、前世での記憶や体験などと大きく関係しているのかもしれないですね。
『袖擦りあうも 他生の縁』 と言います。
これも、前世からの縁~つながりを顕している言葉ですね。
Posted by 井出 章彦 at
06:57
2008年08月15日
…しなければならない
福祉施設で仕事をしていた時は、子どもたちと一緒にソフトボール、空手、カッター(6人で漕ぐボートのこと)訓練、カヌー、海水浴やキャンプ(*夏だけ)などを日常の生活の中で行なっていました。
館内には冷房器具はなく、扇風機だけ。
しかも、机に座ってじっとしている仕事は少なかったので、冷房器具は関係ない中で身体を動かしていることが多かった時代だったと思います。
その後、市役所にて仕事をしていた時は、冷房のある室内で机に座っての仕事です。
ほとんど室内から出ることはなく、その日がどんなに猛暑であったとしても、汗をかくようなことはないままに仕事の終わりを迎えているようなことがほとんどの時代を送っていました。
福祉施設時代は、仕事を通して身体を動かし続けていましたので、病気一つすることはないままに、十年間を過ごせられました。
市役所時代も同じく、病気一つしないままで十二年間を過ごしましたが、そこにはある『大きな決意』がありました。
それは、〔やって 普通〕 という考え方です。
福祉施設時代は、仕事がそのまま運動となっていましたので、《運動不足》とは無縁でした。
日常の私生活においても、空手の稽古、ボディビルディング(に近いトレーニング)、マラソンを日課として取り入れてましたから、逆に《どこかが筋肉痛でないと不安》なくらいでした。
しかし、市役所に入ってからは仕事中での様子は正反対のものとなりました。
「このままではいけない!」と思い、市のトレーニングセンターに積極的に足を運ぶ生活としました。
トレーニングセンターには、多い時で週に5回行くようにしていました。
他にも、水泳やテニス、空手の稽古も行ないました。
おかげで、福祉施設時代よりも身体は引き締まり、体脂肪が8パーセントにまでなりました。
現在ですが、当時の市役所時代よりも更に身体を動かさない毎日です。
たとえば、トイレに行くにも市役所では往復数十メートルの距離を歩きますが、今は『職場が自宅』
ですので、往復数メートルだけの移動です。
市役所には自転車で通っていましたが、今は自宅ですのでそれすらありません。
そこで、〔やって 普通〕 という思い方を変えました。
それは、〔やらなければ 普通にならない〕 という思い方です。
一見すると、この言葉からは義務感が大きく出ているように感じられますが、縛られることは全くなく、あせりや疲れが生ずることもありません。
そのような思い方を基にしての日常の中で行なっているメニューは、三十分間の前蹴りです。
この私流の前蹴りは、ランニングとほぼ同じ効果がもたらされますし、≪立禅≫と同じ成果が出ています。
この時には、十五分間の腹筋や、私流の腕立てなどを併せて行ないます。
時々、盆地にまで出かけて行き、ジョギングをしたり、自宅では拳法(のような動きの練習)をします。
おかげで病気とは無縁であり、また『メタボ』とも程遠い状態です。
*48歳のこの年となっても、ウェストは78センチ。体脂肪は10パーセントを維持しています。
「…しなければならない」 という思い方は、ややもすると精神的にも良くないと捉える人もいらっしゃるでしょうが、今現在での私の場合は「このくらいの思い方で ちょうどいい」のです。
私はスポーツ選手ではありませんので、大会に出て記録を出したりすることはないし、その必要性もないのですが、どういうわけか上記の思い方を≪自分に課している≫のですね。
〔この思い方を持っている自分〕 というものが、〔私自身に合っている〕のでしょうね、きっと。
*もしかしたら、〔前世の自分自身の性格のまま〕 なのかもしれないですね。
※これを『魂の傾向性』と称します。
{魂のクセ、あるいはカルマ}などと称する場合もあります。
一見すると〔ストイック〕にも思えるような生き方をしているかもしれませんが、今の自分にちょうど良いようです。
暑い日が続いています。皆様におかれましてもどうぞ心身の健康に充分に留意されてください
館内には冷房器具はなく、扇風機だけ。
しかも、机に座ってじっとしている仕事は少なかったので、冷房器具は関係ない中で身体を動かしていることが多かった時代だったと思います。
その後、市役所にて仕事をしていた時は、冷房のある室内で机に座っての仕事です。
ほとんど室内から出ることはなく、その日がどんなに猛暑であったとしても、汗をかくようなことはないままに仕事の終わりを迎えているようなことがほとんどの時代を送っていました。
福祉施設時代は、仕事を通して身体を動かし続けていましたので、病気一つすることはないままに、十年間を過ごせられました。
市役所時代も同じく、病気一つしないままで十二年間を過ごしましたが、そこにはある『大きな決意』がありました。
それは、〔やって 普通〕 という考え方です。
福祉施設時代は、仕事がそのまま運動となっていましたので、《運動不足》とは無縁でした。
日常の私生活においても、空手の稽古、ボディビルディング(に近いトレーニング)、マラソンを日課として取り入れてましたから、逆に《どこかが筋肉痛でないと不安》なくらいでした。
しかし、市役所に入ってからは仕事中での様子は正反対のものとなりました。
「このままではいけない!」と思い、市のトレーニングセンターに積極的に足を運ぶ生活としました。
トレーニングセンターには、多い時で週に5回行くようにしていました。
他にも、水泳やテニス、空手の稽古も行ないました。
おかげで、福祉施設時代よりも身体は引き締まり、体脂肪が8パーセントにまでなりました。
現在ですが、当時の市役所時代よりも更に身体を動かさない毎日です。
たとえば、トイレに行くにも市役所では往復数十メートルの距離を歩きますが、今は『職場が自宅』
ですので、往復数メートルだけの移動です。
市役所には自転車で通っていましたが、今は自宅ですのでそれすらありません。
そこで、〔やって 普通〕 という思い方を変えました。
それは、〔やらなければ 普通にならない〕 という思い方です。
一見すると、この言葉からは義務感が大きく出ているように感じられますが、縛られることは全くなく、あせりや疲れが生ずることもありません。
そのような思い方を基にしての日常の中で行なっているメニューは、三十分間の前蹴りです。
この私流の前蹴りは、ランニングとほぼ同じ効果がもたらされますし、≪立禅≫と同じ成果が出ています。
この時には、十五分間の腹筋や、私流の腕立てなどを併せて行ないます。
時々、盆地にまで出かけて行き、ジョギングをしたり、自宅では拳法(のような動きの練習)をします。
おかげで病気とは無縁であり、また『メタボ』とも程遠い状態です。
*48歳のこの年となっても、ウェストは78センチ。体脂肪は10パーセントを維持しています。
「…しなければならない」 という思い方は、ややもすると精神的にも良くないと捉える人もいらっしゃるでしょうが、今現在での私の場合は「このくらいの思い方で ちょうどいい」のです。
私はスポーツ選手ではありませんので、大会に出て記録を出したりすることはないし、その必要性もないのですが、どういうわけか上記の思い方を≪自分に課している≫のですね。
〔この思い方を持っている自分〕 というものが、〔私自身に合っている〕のでしょうね、きっと。
*もしかしたら、〔前世の自分自身の性格のまま〕 なのかもしれないですね。
※これを『魂の傾向性』と称します。
{魂のクセ、あるいはカルマ}などと称する場合もあります。
一見すると〔ストイック〕にも思えるような生き方をしているかもしれませんが、今の自分にちょうど良いようです。
暑い日が続いています。皆様におかれましてもどうぞ心身の健康に充分に留意されてください
Posted by 井出 章彦 at
09:55
2008年08月09日
力を抜く
セミナーの中では『立禅(りつぜん)』を毎回取り入れています。
セミナーに参加されている方たちは、〔自宅においても毎日〕立禅を行なっているようです。
立禅は、気功家(気功師)が訓練の一つとして行ないますが、実は武道の世界によるものなのです。
本場の中国では、『タントウ』と称しています。
立禅の目的としては、
《人間の内的な力を強力にし、瞬間的な爆発的な力・氣を養成する》ことにもあります。
*心身を一つにする
*身体の中心感覚を養成する
*人間の持つ本能機能を呼び覚まし、動物的な反応や動きが可能になる
このような効果・効能がもたらされますので、武道家だけではなく気功家も訓練の一つとして『立禅』をされている場合が多々あるようです。
さて、この『立禅』では、肩・背中・腰の力を抜くことを覚えます。
それがそのままパンチや掌などでの攻撃につながります。
おもしろいことに、《力を抜いた掌》はとても大きな威力があります。
もちろん、身体の内部の腹筋だとか足腰の練りなどは重要な要素となりますが。
これらを『立禅』を通して養います。
中には、『立禅』と『瞑想』を切り離している方たちもいらっしゃいますが、【エル】ではあえて『瞑想法』の一つに取り入れています。
それは、〔腹式呼吸〕を伴うことにより、≪ひらめきがもたらされたり、直感力が増す≫体験を私自身が持っているからです。
合気道の達人などは、「身体の力を完全に抜く」言葉を残しています。
生き方で言いますと、『肩肘を張らない」』 つまり ≪自然体で≫ となるのでしょうか。
今日は『エル セミナー』があります。
そして今月の下旬には『宿泊制研修会』があります。
その中で、『立禅』を通して≪心身の練り≫に、30名の参加者と共に学んでいきたいと思います。
セミナーに参加されている方たちは、〔自宅においても毎日〕立禅を行なっているようです。
立禅は、気功家(気功師)が訓練の一つとして行ないますが、実は武道の世界によるものなのです。
本場の中国では、『タントウ』と称しています。
立禅の目的としては、
《人間の内的な力を強力にし、瞬間的な爆発的な力・氣を養成する》ことにもあります。
*心身を一つにする
*身体の中心感覚を養成する
*人間の持つ本能機能を呼び覚まし、動物的な反応や動きが可能になる
このような効果・効能がもたらされますので、武道家だけではなく気功家も訓練の一つとして『立禅』をされている場合が多々あるようです。
さて、この『立禅』では、肩・背中・腰の力を抜くことを覚えます。
それがそのままパンチや掌などでの攻撃につながります。
おもしろいことに、《力を抜いた掌》はとても大きな威力があります。
もちろん、身体の内部の腹筋だとか足腰の練りなどは重要な要素となりますが。
これらを『立禅』を通して養います。
中には、『立禅』と『瞑想』を切り離している方たちもいらっしゃいますが、【エル】ではあえて『瞑想法』の一つに取り入れています。
それは、〔腹式呼吸〕を伴うことにより、≪ひらめきがもたらされたり、直感力が増す≫体験を私自身が持っているからです。
合気道の達人などは、「身体の力を完全に抜く」言葉を残しています。
生き方で言いますと、『肩肘を張らない」』 つまり ≪自然体で≫ となるのでしょうか。
今日は『エル セミナー』があります。
そして今月の下旬には『宿泊制研修会』があります。
その中で、『立禅』を通して≪心身の練り≫に、30名の参加者と共に学んでいきたいと思います。
Posted by 井出 章彦 at
09:35
2008年08月04日
過去世の名前 2
私には以前からとっても気になっていた人がおります。
その人は既に何年か前に他界していることを先日知りました。
その人に関しては、これまで何の取っ掛かりもないままに時は流れてきていたのですが、
私の知人が『その人と話をしていた』体験を持っており、その時の話の内容を教えてきてくれました。
次の文章は知人が私に教えてくれた内容です。
◇固有名詞、人名はここには掲載しませんでした
私が井出さんと前回に会ってから約2ヶ月半経ちましたね。
その後ご無沙汰になってしまっており、今回メールを打たせて頂きました。
あれから井出さんとは会っていませんが、自分の方で準備ができましたら、またセミナーなどに参加させて頂きたいと思っています。
生前に高橋信次さんが講演会などで申されていた十大弟子のお一人と言われていたある方と、今世少し御縁を頂きました。
その方は数年前に既に他界されておりますが、生前に一度、直接「前世について質問」をし、お答え頂いたことがあります。
その方は8月1日の井出さんの投稿内容と同じような事をニコニコしながら申されました。
「言われている過去生の事実を一番わかってないのは僕かな‥。
もし私がそうだとしようか。でも人はなぜ輪廻転生を繰り返すのだろうか。以前よりもっと、前よりもっと成長するためではないだろうか。
ならば、過去は過去であって、今生の自分が何をするか、何ができるか、それが一番大事なことではないかな」
と穏やかに言われたのを今でもありがたく思い出します。
…長くなりましたが、また井出さん達とお会い出来る日がくると思いますので、その節は宜しくお願いします。
(セミナーの中では、上記に記されている人物の〔今生での名前〕 〔過去世における当時の名前〕 〔釈迦の十大弟子だった時の名前〕 を話しています)
知人を通して、本当に知りたかった人からの言葉を聞くことが出来た私は、「内容のある本を読んだ
こと以上の価値がもたらされた」と強く感じました
その人は既に何年か前に他界していることを先日知りました。
その人に関しては、これまで何の取っ掛かりもないままに時は流れてきていたのですが、
私の知人が『その人と話をしていた』体験を持っており、その時の話の内容を教えてきてくれました。
次の文章は知人が私に教えてくれた内容です。
◇固有名詞、人名はここには掲載しませんでした
私が井出さんと前回に会ってから約2ヶ月半経ちましたね。
その後ご無沙汰になってしまっており、今回メールを打たせて頂きました。
あれから井出さんとは会っていませんが、自分の方で準備ができましたら、またセミナーなどに参加させて頂きたいと思っています。
生前に高橋信次さんが講演会などで申されていた十大弟子のお一人と言われていたある方と、今世少し御縁を頂きました。
その方は数年前に既に他界されておりますが、生前に一度、直接「前世について質問」をし、お答え頂いたことがあります。
その方は8月1日の井出さんの投稿内容と同じような事をニコニコしながら申されました。
「言われている過去生の事実を一番わかってないのは僕かな‥。
もし私がそうだとしようか。でも人はなぜ輪廻転生を繰り返すのだろうか。以前よりもっと、前よりもっと成長するためではないだろうか。
ならば、過去は過去であって、今生の自分が何をするか、何ができるか、それが一番大事なことではないかな」
と穏やかに言われたのを今でもありがたく思い出します。
…長くなりましたが、また井出さん達とお会い出来る日がくると思いますので、その節は宜しくお願いします。
(セミナーの中では、上記に記されている人物の〔今生での名前〕 〔過去世における当時の名前〕 〔釈迦の十大弟子だった時の名前〕 を話しています)
知人を通して、本当に知りたかった人からの言葉を聞くことが出来た私は、「内容のある本を読んだ
こと以上の価値がもたらされた」と強く感じました
Posted by 井出 章彦 at
10:10
2008年08月01日
過去世の名前
拙著『心の眼』シリーズの中に、私個人の過去世の名前などを記しています。
〔前世において生きていた当時の名前〕などを記したわけです。
さて、この名前を聞いたり、見たり、知った人の中には、「○○だって!? それはありえないよ」 「その名前は嘘に決まっているさ」 などという感想を持たれている人もいるでしょう。
正直、私自身も「本などで書いたりしたけれども、本当なのかなぁ~」と随分と思ったりしていました。
数年間は何度も他の人たちにうかがったりもしました
当時六歳の女の子から五十代の男性に至るまで、私個人の過去世の名前のことでの見解を聞いてきたという経緯もあります。(小さな子どもは心がとっても純粋ゆえに中には能力者もいるようです)
私の周囲には、人よりも〔霊的能力に秀でている〕人が多くいます。
中には〔トランス状態に入れる〕という能力を持っている人もおり、その人を招いて実習・実験のようなことをしたことも数回あります。
別に過去世の名前に捕らわれたり、こだわったりすることはないのですが、『好き勝手に、気に入っているような名前を出して使っているわけではない』ということです。
それに、過去世の名前を知ることで《自惚れたり、増長慢になってしまう可能性もなきにしもあらず》
であり、そのことはとても危険です。
【エル】には幸いに、「井出さんの過去世の名前は○○だから来ました!」という人はおりません。
いずれにせよ、私個人が何を言わなくとも、過去世の当時の名前や生き方に関しましては、心の眼を開いた人たちによってこれからも更に実証されていきますし、新しい(というよりも単に忘れているだけの)事柄などが今後も判明されてくることでしょう。
と、このようなことを書きましたが、過去世の名前のことはほとんど気にしていないのが現状です
今という時間は、過去世の延長である。
その過去世にとらわれず、今を見て、今に生きる。
今に生きることにより、これまでの過去世も生かされる。
大切なことは、『過去世の名前』ではなくて、≪今の生き方≫であろうと思っています。
〔前世において生きていた当時の名前〕などを記したわけです。
さて、この名前を聞いたり、見たり、知った人の中には、「○○だって!? それはありえないよ」 「その名前は嘘に決まっているさ」 などという感想を持たれている人もいるでしょう。
正直、私自身も「本などで書いたりしたけれども、本当なのかなぁ~」と随分と思ったりしていました。
数年間は何度も他の人たちにうかがったりもしました
当時六歳の女の子から五十代の男性に至るまで、私個人の過去世の名前のことでの見解を聞いてきたという経緯もあります。(小さな子どもは心がとっても純粋ゆえに中には能力者もいるようです)
私の周囲には、人よりも〔霊的能力に秀でている〕人が多くいます。
中には〔トランス状態に入れる〕という能力を持っている人もおり、その人を招いて実習・実験のようなことをしたことも数回あります。
別に過去世の名前に捕らわれたり、こだわったりすることはないのですが、『好き勝手に、気に入っているような名前を出して使っているわけではない』ということです。
それに、過去世の名前を知ることで《自惚れたり、増長慢になってしまう可能性もなきにしもあらず》
であり、そのことはとても危険です。
【エル】には幸いに、「井出さんの過去世の名前は○○だから来ました!」という人はおりません。
いずれにせよ、私個人が何を言わなくとも、過去世の当時の名前や生き方に関しましては、心の眼を開いた人たちによってこれからも更に実証されていきますし、新しい(というよりも単に忘れているだけの)事柄などが今後も判明されてくることでしょう。
と、このようなことを書きましたが、過去世の名前のことはほとんど気にしていないのが現状です
今という時間は、過去世の延長である。
その過去世にとらわれず、今を見て、今に生きる。
今に生きることにより、これまでの過去世も生かされる。
大切なことは、『過去世の名前』ではなくて、≪今の生き方≫であろうと思っています。
Posted by 井出 章彦 at
12:27